『左京区七夕通東入ル』をめぐるrive droite的雑考

左京区七夕通東入ル

左京区七夕通東入ル

オビによれば、「ダカーポ最高の本!2010“女子読み恋愛小説”第1位」だそうだ。
良いトシの今だからこそ笑って読めるが、若い頃だったら気恥ずかしくて到底読み通せなかったかも、と思うほど、女子度、乙女度の高い小説である。自ら右岸派と称しつつ左岸については「四畳半」シンパを以って自認する私としては、七夕でもないと取り上げにくい作品なので、本日、とりあげることにする。
森見、万城目にふれておいて、これにだけふれないのも何だし。

時は2008年頃、舞台は左京区百万遍界隈(つまり京大)。ヒロイン・花は文学部の女子。意中の人・龍彦は理学部数学科。ともに4回生。七夕の日の合コンでの出会いから卒業までの半年間が描かれている。
作品中、龍彦ら学生寮吉田寮)に住まう男たちに代表される百万遍の学生文化と、そこから「自転車で十分足らずのところにあるミッション系の女子大」の友人アリサに代表される女子文化とは、あざやかな対比に染め分けられる。つまり、

「ださくて深遠な【左岸】文化」 VS. 「おしゃれで軽薄な【右岸】文化」

という、ステレオタイプの二項対立図式、異文化衝突が、ここでも又、ものの見事に、というか、余りにもすなおにorz、継承されているのだ。
ヒロインの花は、【左岸】の学生だが、【右岸】でバイトをしている。しかも、いかにも【右岸】的というかエッジィな古着屋である。来春からの就職も内定しており、単位もほぼ取り終えている。カフェでスイーツなど食す「おしゃれ」な女の子だ。しかし、【左岸】を体現するかのような「ちょっと変わった」龍彦にひかれ、「ださくて」「いけてない」寮生たちに対し、実は深いところで若干のコンプレックスも抱いてもいる。まさに、【左岸】【右岸】を往復する存在と言えよう。
さて、rive droite的関心事は、当然、「左京区」ではなくむしろその対岸にある。
アリサは、花と同じ東京の高校出身。理学部に恋人がいるため足繁く京大に通っている、やはり【左岸】【右岸】を往来する存在として描かれる。ヒロインと異なるのは根が【右岸】にあることだ。
アリサの大学のモデルは同志社女子大学と考えてよい。京都のミッション系の女子大は、キリスト教主義の同志社女子、カトリックノートルダム女子、聖公会平安女学院と、3つあるが、そのうち京大から「自転車で十分足らず」なのは同女のみだ(ほか、カトリック聖母女学院短期大学もあるが、これは伏見=洛外)。北大路付近の病院から吉田へ帰る途中でそのグラウンド横を通る位置関係からも同女と確認できるし、また、臆することなく京大に出入りする、深夜のバイト@祇園、などの点から見ても、同女と断定できる。(ちなみに、京都ノートルダム女子大学では、夜間の飲食接客業は在学生に相応しくないアルバイトとして禁止されている。これぞ真のリスペクタビリティというべきか? 類似規則が同女や平女にあるか否かは不詳。)
その【右岸】の「ミッション系女子大生」たちの様子や如何。

アリサが連れてきた大学のクラスメイトは、さすがと言うしかないくらい華やかで清楚だった。同性のわたしでさえ見とれてしまう、うちのキャンパスでは絶対にお目にかかれないタイプの女の子たちだ。ふたりともパステルカラーのワンピース姿で、髪は片方がロングのストレート、もうひとりはふわふわしたパーマをかけている。ひかえめで手のかかったナチュラルメイクに終始にこにこと笑顔で、まるでなにか奇跡のような感じのよさだった。

ヒロインは、たまたま7月7日の朝、出掛けにブルベリーを服にこぼしてしまったため、とっさに花柄のワンピースに着替えて登校し、そのおかげでこの「ミッション系女子大生」たちと並んで合コンの席に連なることが出来た。そうして、対岸に座った自分の大学の男子たちが「向かいの女の子たちにうっとりと」しているのをこちら岸から眺めて楽しんだりもしている。ここに【左岸】【右岸】を重層的に往来するヒロインのまなざしがある。そこに極めて【左岸】的な龍彦が遅れて登場する。恋が始まるシーンだ。
【右岸】代表の友人、アリサ個人の造型についても見ておかねばならない。

中学までアメリカ育ちの帰国子女で、思ったことをなんでもストレートに口にする、さばさばした性格の持ち主だ。背が高いほうではないわたしと並んでもひとまわり小柄だけれど、顔もきゅっと小さいのでバランスはよく、茶色がかった瞳とくるくるの髪、それに本人は気にしているそばかすがかわいらしい。ハーフなのかとおもっていたら、両親ともに日本人だという

ここで想起されるのが、明治時代の同志社女子の学生「寿代」の存在。

混血児かと思ふ程赭つちやけた髪を引つめの束髪に結つた十五六の女学生である。目尻の下がつた鋭い茶色の目で睨むやうにぢいつと敬二を見ると、いきなり彼方向いて弛むだ空色繻子の帯をきゆツと手ばしこく締直し、会釈もせず座敷へ入つて了ふた。何と云ふ不躾な娘だらう、敬二は心に叫むだ

これは、徳冨蘆花が自らの同志社在学時代の恋愛を回想して書いた自伝小説『黒い眼と茶色の目』(1914)の一節だ。寿代は、赤茶けた髪と「茶色い目」という容姿のみならず、遠慮のない積極的言動もどこか日本人ばなれした少女だ。アリサのような帰国子女ではないものの、同志社創立者の親戚であり、文化資本の相続者ではある。その意味でも彼女はまさにアリサの大先輩に間違いない。
ミッション・ガールをエキセントリックな存在として描くことの「鉄則」は、明治以来平成に至るほぼ百年、依然として守られ続けて来た、ということになる。
しかし、かつてマドンナは青年達を惑わす存在であったが、平成時代の花やアリサはむしろ不器用で朴訥な青年達に思い切り振り回されている。
私自身の知る限りにおいても、どうやら【右岸】【左岸】の力関係は今日では完全に逆転しているようなのだ。