「煩悶」青年と「哲学」的な恋―「悩む力」雑考その2

明治36(1903)年、旧制第一高等学校の生徒・藤村操が華厳の滝で投身自殺をした。18歳だった。自殺現場付近の木に記した遺書「巌頭之感」が社会的反響を呼び、大勢の若者が後追い自殺を図った。藤村の友、岩波茂雄は、当時を「人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代」として回想している。


「立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥じ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。当時私は阿部次郎、安倍能成、藤原正三君の如き畏友と往来して、常に人生問題になやんでゐたところから、他の者から自殺でもしかねまじく思はれてゐた。事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であつた。巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。」
日本ペンクラブ電子文芸館http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/essay/fujimuramisao.html


夏目漱石は一高で藤村の英語クラスを担当していた。『吾輩は猫である』には事件への言及がある。つまり漱石が『三四郎』で描き、姜尚中が自らを重ね合わせた「若き日の悩み」「青春の煩悶」は、決して特殊なものではなく、明治以来の時代的な現象だったのだ。彼らにとって、「煩悶」は青春のキイ・ワードだった。
藤村操の自殺理由については、哲学的問いだったのか、はたまた失恋だったのか、諸説があるようだが、恋愛が哲学的煩悶では無かったとは言えまい。中村隆文が指摘するように、また漱石が描いたように、近代知識人にとって恋とは「哲学」的恋愛だったからだ。
参考:中村隆文『男女交際進化論 「情交」か「肉交」か (集英社新書)
(「雑考その3」へつづく)