大学祭の頃―「悩む力」雑考その3

今年の11月祭のテーマは「失った常識のかわりに」。
同志社Eve祭は「今を生きる、進化を繋ぐ」。
1970年代中ごろのある秋の日、少女だった私に近所の大学生さんが来る大学祭のテーマを教えてくれたことがあった。それは「泰山木の樹の下で哲学的な恋をしよう」というものだった。確か一橋のテーマだったと思う。そのフレーズと、それを教えてくれた大学生のいかにも大学生ぶった少々誇らしげな態度が、未だに記憶に残っている。同じ頃、津田塾の大学祭の長谷川きよしライブに潜り込んだことも懐かしい。大学生が一番大学生らしかった季節、それが70年代だったのではないか。

さて、藤村操の死が1903年、『三四郎』は1908年。『悩む力』の姜尚中氏が大学に入学したのが1959年。「泰山木」のテーマが示すように、1970年代まではまだ学生文化における「哲学」は健在だった(「煩悶」はともかくとして)。当初「思索の道」と呼ばれていた「哲学の道」が、正式に現在の名称となったのが1972年だ。しかしこの70年代を境に、大学をめぐる状況、若者の心性が大きく変容したこともまた周知の事実だ。
近代教育制度によってメリトクラシーが本格的に作動し始めた時代、人々の原動力となった「立身出世主義」の裏面には「煩悶」がつきものであったことを、竹内洋は指摘している。輝かしい「立身出世」の理想は強烈な抑圧装置ともなる。憧れと現実のギャップに「悩む」若者はしばしば「神経衰弱」に陥ったりもした。恋愛もまた「哲学的」でなくてはならなかったのだ。
仮説だが、現在の日本には2種類の人が居るのではないか。つまり三四郎から姜尚中にいたる「近代人」、そして、『悩む力』を見ても今ひとつぴんと来ない若者を含む、その「後の世代」のふたつだ。近代人と現代人、と言ってもよいか。ウェーバリアンでもある姜氏は近代イデオロギーと「煩悶」の正統な継承者である。イデオロギーの光が輝かしく強烈であればあるほど、その光が作り出す影も又深く濃いものとなる。しかし、「新人類」以降の世代には、その光も影もすでに弱々しく曖昧なものに変容していた。
これは、70年代と80年代をまたぐ4年間を大学生として過ごした私個人の実感でもある。