アルバイト

昨日の文。ひとつ、学生生活につきものの重要項目を落としていることに気づいた。
バイトだ。
苦学という言葉は大昔からあった(竹内洋立志・苦学・出世-受験生の社会史 (講談社現代新書)』)。1970年代頃、レジャーの費用を捻出するためのバイトも増加し、勤労学生の暗いイメージは一変した。バイトが多忙で勉強している「ひま」がない、と学生に言われたことがある。バイトがメインになって大学を辞めてしまう例もある。そこまで行かないにしても、生活の主軸が学業でも部活でもなくバイトだという例は少なくないのかもしれない。「社会勉強」の場として、就職へのステップとして、あるいは交友範囲を広げるため、経済的必要に迫られて、等々、様々な事情で学生はバイトをする。いずれにせよ、大学生活の日常風景であることは間違いない。

気がかりなのは、バイトが社会格差と結びついているという指摘だ。福地誠によれば、社会格差はすでに教育の初期段階から進んでおり、高校の段階で「勉強」組と「バイト」組に明確に分かれる。しかもバイト生活は「遺伝する」というのだ(『教育格差が日本を没落させる (新書y)』)。
確かに、学費生活費のための学生バイトには、保護者の経済力が直接影響している。しかしレジャー費のためのバイトにも、やはり親のライフスタイルは色濃く反映する。そこで往々にして親モデルが踏襲され、「社会勉強」の場―たとえば外食産業における非熟練単純労働―が自動的に選択され、自ずと階層も再生産されることとなる。親の価値観もライフスタイルもそのまま子どもへと相続され、教育のメリトクラティックな効果は機能しなくなる。

バイトはいわずと知れたドイツ語Arbeitからの外来語だ。
1987年ドイツにおり立った私は、ドイツ語はからっきしだったくせに観光ヴィザではなく一人前に就労ヴィザを携えていた。暮らし始めてすぐ、毎度の自己紹介の際、必ず言わねばならない「図書館で働いています」という表現に、このおなじみの単語を使って速攻ドイツ人になおされた。
「arbeiten(労働する)ではなくて anstellen(勤務する)を使わないと」
と、親切なドイツの友人たちは笑って教えてくれた。
「図書館で力仕事をしているわけじゃないでしょう!Arbeiterじゃあ労働者になっちゃう。‘大卒’で知的な職業に就いているならarbeitでは可笑しいよ」
これは単に、言い回しとかニュアンスとかの問題ではなかった。実際、曲がりなりにも図書館という機関にanstellen雇用されたからこそ永住権のある就労ヴィザが簡単に取れたのであって(住民登録し雇用保険にも入った)、これがドイツ語学校で一緒だった一部の友人達のように皿洗いや清掃の仕事arbeitに就いていたのでは、(彼らが咽喉から手が出るほど切望しても得られない)そのヴィザは持ち得なかったのだ。実際その職分による恩恵を、私は生活の中で充分に得ていた。いわゆるGastarbeiter外国人労働者ではなく、ずっとドイツに住む権利をもつ仕事についている外国人として、ドイツ社会は私を遇した。仕事と直結した社会の格差をまさしく目の当たりにする体験だった。
職業に貴賎はないと教えられ、ホワイトカラーとブルーカラーの違いにも無頓着だった当時の私を育んだ我が故郷日本の「平等観」を、寿ぐべきか、めでたいnaiveと言うかべきか…。いずれにせよ、真の平等はまず隠蔽されている格差を意識するところからしか始まらないということだけは確かだろう。