大学に出る、ということ

昨年度まで奉職していた大学は小規模かつ実技系科目が多いということもあって出席重視を励行しており、全講義実施回数の3分の1以上欠席すると単位取得資格なしという規則が全学的には機能していた。しかしこれは私的規律を超える要求だったので、私はこれを努力目標としたローカルルールをしき、まあ、私の講義では私ルールに照らして判断するということで、出欠については比較的甘い方針で通してきたわけです。すると驚くべきことに「欠席の多い人にも単位をやるなんてズルイ」という苦情が寄せられた。皆勤精勤者はそれが評価されるだけでは飽き足らず、他人の欠席が失点に結びつかないと納得できないものらしい。そういう不満に対して、「毎回出席しても講義内容を全く理解出来ていないAさんと、欠席がちでもしっかり内容習得できているBさん」を例に、「結果責任の原理」を説明する。それでもなお納得できない皆勤精勤さんの労に報いる策として、ノート提出などを折々に実施してきた。これは、真面目に一生懸命講義に出てくる学生には至って評判の良い評価方法だった。
しかし、今年度蓋を開けてみて驚いたのは、大学院クラスを除いた全てのクラスが相当規模が大きいということだった。流石に200を超える人数では、ノート提出はもちろん、出席票も点呼も毎回の実施は困難だ。
といった事態に対応するハイテクも現場には既に登場していた。今回初めてお目にかかった「出席情報収集システム」の端末がこれ。教室内に設置されている。学生証を1秒かざすだけでピッと読み取りデータが入力される。なんと時代はここまで来ている。改札口やATMでまごついてる場合ではない。

しかし、そういうハイテク完備の大学ばかりではないので、今期は出席を直接評価に反映しないクラスも設けることになった。明らかに不満そうなAさんの顔も見え、申し訳ないのだけれども。
しかし逆に大規模クラスで出欠をとる意味が果たしてあるのかと問いたい。たとえハイテク化がどれほど進んでも「代返」のテクニックも同様に発展するに違いないのだから。

そもそも出席重視を喜ぶ大学生の存在が、私には未だに不可思議でならない。
大学に出る、とはどのようなことか。
講義やゼミなどに出ることは、確かに、学費を払っている大学生の第一義的権利(今時の大学生は確かに「コストー権利」意識が非常に高いの)ではあるが、実際には、本を読むこと、調べること、書くこと、図書館の森の深さに迷い込んだり、キャンパスの片隅で思索を巡らせたり、そして友達に会うこと、学食で友達とまったりしたり、部活のわけのわからないエネルギーにもまれたり、学生街の喫茶店で議論したり、学生割引の安酒場で痛飲したり(団塊世代なら麻雀やビリヤードなども入るか)、おそらく大学生時代にしか見ないような映画や演劇を見たり、昼夜逆転させたり、はめをはずして(以下略)…、
といったような一切合切こそが、おそらく大学生である間に許される特権的な生活だろう。
実習や語学以外の文系の講義は、皆勤精勤出席することが必ずしも重要なことでは無い。この考えは決して私個人に特殊なものとも思えない。
しかし既に現実のほうが大きく様変わりしてきている。それはもちろん文科省方針にもよるわけだが、
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/daigaku/04052801/003.htm
それより何より、大学生自身の資質が変容を遂げてきたことのほうが私には圧倒的に重く感じられる。出席率を積極的に評価してほしいと希望する学生の増加。束縛や強制など無いほうがいいに決まっていると思い込んでいた私にとっては、これは驚くべき現実だった。
芥川龍之介の言を待つまでも無く、自由は山巓の空気に似るか。息も絶え絶えになろうと山巓をめざす学生の矜持は、いや、まだどこかに生きていると信じたい。