constructiveな時代?

さて、「品格」。
相撲界だけではない。

いわゆる「品格」ブームは、2005年刊の『国家の品格』(藤原正彦、新潮社)が火つけ役とされる。翌2006年、「品格」は流行語大賞を受賞し、類似本の出版が相次いだ。2008年4月当時、東京の大型書店には「品格」をタイトルに含む本は100種類近くあったという※1。このブームは、浸透を深めつつ今日もまだ継続しているようだ。

しかし、これら「品格」をめぐる議論について、あらためて見わたしてみると妙なことに気づく。問題視されているのは「品格」ではなく、「品格」が「無い」ことなのだ。そして、「無い」ことを問題視する側に対するアンチが登場し、議論がヒートアップしていく。その中心たる「品格」に実体はない。焦点となっているのは、期待される理想型、望ましき模範像、つまりイメージだ。
社会規範は、しばしばそのようなイメージ闘争から生まれる。その上に初めて、実体としての型が現出する。アンチも実は、最初の議題提出者とともに空虚な中心をより強固に具体化し実体化していく過程に、無意識のうちに加担していることになる。

さかのぼってみると、この「品格」という社会的規範概念をめぐって、著しくdestructiveだった時期と、constructiveだった時期があったことに気づく。
1970年代を中心に、「怒れる若者たち」は既成秩序を徹底的に攻撃破壊しようとした。あらゆる「パターン」「ルール」を破れ、「品格」なんてふみつぶせ、「因習」「しきたり」は廃棄せよ、と。
constructiveだった時期は1900年前後だ。急速な近代化の中で、前世紀から徐々に育ちつつあった市民的価値観respectabilityが、過剰なまでに強烈にうちたてられた。この価値観の進展はドイツにあってはナチズムの台頭につながったことを、Mosseは指摘している※2。

「品格」をめぐるブームは、今、何を建設しうるだろうか。新しく生み出されるコードが真の幸福を約束するものかどうか、目を開けていなくてはならない。

※1http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080423bk04.htm
※2『ナショナリズムとセクシュアリティ』