火事と喧嘩は江戸の花―海老蔵事件によせて

SMAPの草薙事件のおりも、リスペクタビリティのうってつけの教材として社会学講義でとりあげたが、今回の海老蔵の事件も然り。問題にしたいのは、事件そのものではなく事件をめぐる報道―バッシングの様相だ。余りにも、近代市民的価値観リスペクタビリティにとらわれた攻撃に、ふと、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉を思い出してちょっと調べてみた。

デジタル大辞泉の解説
火事(かじ)と喧嘩(けんか)は江戸の花
江戸は大火事が多くて火消しの働きぶりがはなばなしかったことと、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったことをいった言葉。

実に無味乾燥な解説ですね。ただ単に、火事や喧嘩が「多かった」という意味の言葉ではないはずです。
一昔前の時代劇を見れば明らかなように、江戸の火消は「いき」で「いなせ」な男の仕事、子どもや町娘が憧れるようなカッコイイ職業だったのだ。同様に腕っ節の強い喧嘩男は、江戸っ子として明らかにポジティヴな高い評価を得ていた。このような「前近代的」価値観は、しかし、少なくとも昭和時代までは、庶民的日常感覚の中、例えば時代劇の中では十分継承されてきていた。
ところが、ある種の「文明化の過程」の中で、火事も、喧嘩も「害悪」としてカテゴライズされるようになる。腕っ節の強さなど、かっこよくもなんともない、単なる乱暴者、馬鹿者として指弾されるようになる。
むろん、それは「正しい」。品行方正、健全、健康、優等が望ましいのは確かだ。私だって個人的に体育会系より文化系がタイプだ(というのは関係無いか)。しかしだからといって逸脱者を総叩きにする状況は明らかにファシスティックである。
江戸歌舞伎の大名跡団十郎丈がかつて海老蔵時代に、(息子とは真逆に)余りに生真面目なキャラのため「あれでは芸域を狭めるのではないか」「役者は遊びも芸の肥やしなのに」などと囁かれていたことなど、すでに忘却のはるかかなたである。歌舞伎役者であろうが、いや、人間国宝になるような歌舞伎役者だからこそ、社会の中でもいついかなるときも一市民としてリスぺクタブルにふるまうべきである、というのが、すでにメディアの暗黙のコードとして固定されたかのようだ。酒を飲んで喧嘩をしたのは確かに大失敗であったにせよ、だからといって人間まるごと否定してかかるような言説は如何なものか。
私は海老蔵贔屓ではさらさら無いけれど(むしろ南座の代役が愛之助と聞いて「お、いいね」と思ったくらいだし、基本、遊び人よりカタブツが断然好みだけれども←関係ないか)、大勢に乗じて喜々として失敗者を叩く側にまわるメディアに対しては、素朴な嫌悪を抱かざるを得ない。
極端な話、仮りに顔面や表情筋に問題がのこったとして、逆にそれをウリにする芸、役者が新しく出てきたって別によいのではないか(白波ものなんかにはむしろうってつけ?あるいは本当に力さえあれば、当て役の新作を書き下ろしてもらったっていいだろう)。もし、無傷で完全な健康体、完璧な顔面の者のみが、舞台に立つことを許される、というのならば、それは例えば障害を持つものは役者になれない、という「予めの排除」つまり「差別」にほかならない。かつて刑事コロンボを演じた名優ピーター・フォークが隻眼なのは有名な話だ。成田屋御家芸の「にらみ」に差し障るから再帰も危ぶまれるかも、などとというまことしやかな報道すらあるが、そもそも歌舞伎の芸というものがかく微に入り細にわたって約束事で占められた「伝統作法」のようなしろものだったのか。本来、もっと自由闊達なものだったはずだ。
メディアは本来その自由を守護すべき立場にあるはずなのだが。