備忘3 長谷川等伯展

yasmins2010-04-21

一番見たかったのは名高い「松林図屏風」だったのに、鑑賞に費やした時間もやはり「松林図屏風」が一番長かったのに、印象に残ったのはむしろ「柳橋水車図屏風」のほうだった。(アートよりメディアに、己の関心が移っていることを自覚した。)
「松林図屏風」の芸術的評価は圧倒的に高い。素人評をここで繰り返すまでもないだろう。一方、「柳橋水車図屏風」の価値は、おそらく作品そのものの水準もさることながら、それが意匠として同時代に一大ブームを巻起こしたことにあると言って過言では無い。この点についてのみ若干コメントしておこうと思う。
柳橋水車図屏風」
その名の通り、柳と橋と水車が描かれている。滔々たる川の流れ、ゆるやかな柳の天然自然の曲線と、橋の描くきりっとした意思的な人口のライン。ここに水車の回る音が響いてくる。空には月がかかっている。
この絵が、長谷川派「最大のヒット」作となった。「柳橋水車図」と名のつく作品は、現存するものだけでも20点を超えるという。(ためしに検索してみて下さい。すぐに複数の絵柄が見つかります。)当時長谷川派のライバルであった狩野派の絵の中にさえ、背景にこの長谷川ブランドの「柳橋水車図屏風」の存在が描きこまれている。このことは、当時この絵がいかに流行していたかを証明するものと考えられている。
NHK日曜美術館の番組の中で、現代のイラストレーターが「欲しくなる」として「柳橋水車図」を高く評価していた。「あ、これ欲しい」と感じる絵なのだと。流れにかかる「しゅっと」した橋、これに対するやわらかくしなやかな柳。この絶妙のコンビネーション。
京都国立博物館の山本英男美術室長も、「誰が見ても『これ、いいよね』と思ったのではないでしょうか」とこの絵を評する。(毎日新聞特集2010.3.25.)
「欲しい」
「これ、いいよね」
この感覚は完全に消費者のものだ。それは、芸術作品を鑑賞する態度というより、モノとして入手し、愛でようとする態度である。確かに当時の人々もそう感じたに違いない。だからこそ、今日では作者不明となるようなコピー作品が大量に出回ることになった。同工異曲ならぬ、異工同曲。息子や弟子が描いた多くの作品の中には、何度も繰り返し写されているうちにいわゆる「写し崩れ」を起こした作品もあったという。それでも、人気があり需要があったからこそ、この絵は繰り返し写され流布した。絵というより意匠として一人歩きを始めていたと言えよう。たとえ芸術として駄作であっても、なお「ウケル」というのは、まさにそういうことではないか。
毎日新聞2010.3.25.特集)
「欲しい」
「これ、いいよね」
確かに、いかに「松林図」に感動し、「涅槃図」に圧倒されようが、持ち帰って身辺に配するのであれば、やはり圧倒的に「柳橋水車」ということになるのだろう。この意匠は身の周り品にも多用された。現に、この絵をモチーフとする蒔絵箪笥の現代作品もある(1978年完成。大塚家具所蔵。本展覧会の会期にあわせ、同社大阪南港ショールームに展示中の由)。
柳橋水車図」は意匠化した。柳と橋とのコンビネーションの妙は、おそらく、一度日本人の脳内にインプットされると「定番」になってしまうほど決定的なものだったに違いない。かくして、私たちの頭の中には「柳と橋」というイメージが植えつけられる。私たちが頭の中でなんとなくイメージする「柳」は、なぜかいつも「橋」のすぐそばに立ってはいないか。リアル柳は、橋から離れた川岸にも、池にも、沼の岸にも立っているのに。凡庸月並みであっても、「橋」のたもとには風情をそえるものとして、つい「柳」を描きたくなるのではないだろうか。そのようなイメージ、気の遠くなるほどの膨大な複製を生み出し、そこから又生み出された月並みイメージの、偉大なる元祖、オリジナルが、長谷川等伯というわけだ。
さて、下の画像は昨日の出町柳。中央奥に霞んで見えるのが如意岳(大文字山)。出町柳という地名は、出町と柳という二つの旧地名をあわせて出来たものと聞くが、幕末までにはこの付近には実際多くの柳が植えられていたという。高野川と賀茂川がひとつになり、鴨川となって都を流れる、そのY字の中央の結び目が出町柳だ。当然橋がある。この柳は一体何時頃から植えられたものなのでしょう?もしや桃山時代では…。
柳と橋と大文字。月並みな構図。