ニコライ堂「不敬」言説の流布

意外なところで拙論が引用されているのを発見。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%A0%82
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E8%BE%BA%E7%90%A2%E7%A3%A8

引用は批判や誤用の場合もあるから、有難さと冷や汗とが半々なものだが、はたして今回は孫引でした。それでもやや嬉しかった理由は以下。
Wikipediaの「ニコライ堂」の項目、「建設中途の1889年頃からは尖塔が皇居を見下ろす形になり不敬であるとの言説が流布」という部分の引用元が、拙稿だった。「不敬言説流布」の出典は、『明治ニュース事典』(1983)および『一高魂物語』(1923)です(残念ながら私が発掘調査した事実ではありません)。
特に、ノンフィクション・ノヴェルの『一高魂物語』には、当時の様子が活写されている。
若きナショナリズムに燃える第一高等学校の生徒たちが、仕込杖まで携えてニコライ堂まで談判に押しかけるシーンだ。それが明治29(1896)年。彼らは学生のみならず各メディアにも檄を飛ばし輿論を起こそうとした。
この「不敬言説流布」が広く紹介されて嬉しいのは、まだ個人的に関心があるゆえで、というのも、実は論文には書かなかったあるオリジナルの仮説があるからなのだ。


ニコライ堂を「不敬」として攻撃したのは一高生達だけではなかった。それは事実。しかしその最大の根拠は、実は、前近代的な「鬼門」だったのではないか、という仮説。ニコライ堂が位置する駿河台は、皇居(江戸城)から見て北東すなわち鬼門にあたる。つまりニコライ堂は、駿河台という小高い丘から宮城を物理的に見下す、というに留まらず、風水地理における都の「鬼門」を犯していることになる。時代のエリートたる一高生たちは、当然、このような非科学的、前近代的な根拠は必要としない。しかし一般大衆はどうだろう。古来、都(国の中心)を守るため、「鬼門」がいかに重視されてきたかは、京都にあっては幸神社、赤山禅院比叡山、江戸にあっては神田明神寛永寺といった鎮守の例をあげるまでもない。一般生活の中でも、九星気学に基づく方位の知恵は、暦と同様、ある程度根づいていたはずだ。俗に、苦手な人やものごとを「鬼門」と称するほどである。「鬼門」を犯してはならないという程度のことは、一般常識だったに違いない。その「鬼門」、よりによって皇居の「鬼門」に、忽然としてキリスト教江戸幕府にとっては邪宗門)の大伽藍が建築される。しかも、その壮麗さたるや圧倒的なものとあっては、神田明神に慣れ親しんだ江戸っ子たちへの刺激はいかばかりだったか、想像するに余りある。

いったことは、あくまでも私個人の想像の域を出ず、探しても一向に裏づけデータが得られなかったため、論文にも当然書けなかった。もし、関係データをお持ちの方がいらっしゃいましたら(新聞雑誌等はもちろん、個人の日記、聞き書き、記憶等でも結構です)、どうかご教示のほどお願い申し上げます。常識とか日常感覚とかいった類のことは、しばしば記録には残らない。しかし、社会学(というより私個人)にとっては最もとりくむ価値のある領域ではないかと思う。しばしば論文にするのも困難なのだけれど。いずれにせよ、ニコライ堂不敬言説は、日清戦争日露戦争の間の日本人感情を伺い知ることが出来る貴重なエヴィデンスであることに間違いない。

ちなみに、故藤山一郎が歌った<ニコライの鐘>は、不敬エピソードよりはるか後の昭和27年。建築当時激烈な反発を招いたニコライ堂も、まもなく東京新名所として土地に馴染み、大正昭和にはロマンティックですっかり無害な背景になっている。


最近、若くして亡くなった歌手の葬儀がニコライ堂でとり行われたと聞いて、初めて彼女がロシアの血をひいていたことを知った。幼い頃はいわゆる帰国子女として日本の子供社会で過酷な苛めにあっていたそうだ。我々のメンタリティは日露戦争前と何ら変わっていないのだろうか。恥ずべきことだ。