空気と世論と文学と

竹内洋の「進歩的文化人、コメンテーター、下流大衆社会」を読む(『諸君!』5月号「革新幻想の戦後史⑱」。ちなみに同誌は次号を最後に廃刊)。当Weblogでもふれた福田恒存の戯曲「解つてたまるか!」がとりあげられていたhttp://d.hatena.ne.jp/yasmins/20090302/p2。竹内は日経3月16日夕刊のコラムでも「解つてたまるか!」にふれている。

つい一昨日、文学部国語国文学科出身の同級生たちと四半世紀ぶりに旧交を温めたばかりだったこともあって、福田恒存という存在についてはあらためて考えさせられた。
文芸評論の絶滅を、同級生は嘆いていた。末裔はさしずめ、TVなどに登場するコメンテーターか。しかし彼らから骨太の議論が聞かれたためしはない、と(村上春樹の先般の受賞スピーチは同席者の殆どが高く評価)。
竹内もまた「進歩的文化人」の後裔としてのコメンテーターが、「瞬間芸」人、あるいは「空気を読」むに過ぎない存在であることを指摘し、さらにケインズの「美人投票」のメカニズムに準えた「投資行動」での説明もしている。
佐藤卓己の「輿論よろん/世論せろん」フレームを仮借するならば、さしずめ、かつて文学が「輿論」を発信した時代があったが、今日「世論」ばかりが肥大している、ということになるのだろう。

「世論」はイデオロギーと容易に結託する。それは鷲田清一の指摘を待つまでも無く、例えばモッセのような歴史家たちが粉骨明らかにしてきた事でもある。「空気」こそが、実に移ろい易いにもかかわらず、大いなる強制力をも持ちうるものなのだ。

その意味で「進歩的文化人」という語が、果たして美称だったのか蔑称だったかという竹内の吟味は、単なる語源の探索ではなく、時代の「空気」(世論)を相対化する意義を持っている。