品格教育

土日をおいて、品格のつづき。

品格ブームや論争は、品格そのものが流行したのでも議論されたのでもなく、専らそれが欠けている/無い、ところから発していた。そして、それらの言葉がより多く紡がれていくにつれ、中空にあったイメージはより具現化され実体化してくる、
という話でした。
今、まさにその過程が進んでいるという実感がある。これは、70年80年代にdestructiveな過程があり90年代に妙な風通しのよさ/空疎が実感できたことと、ちょうど真逆の流れになる。
その様子はまず若い人たちの反応に見てとれる。

優勝力士のガッツポーズが批判されたとき、初めて「ガッツポーズって、NGだったんだ!」と知った若者はそう少なくないのではないか。「だって、オリンピックのメダル選手達だってよくやってるじゃない」。横綱審議委員会の「品格に欠ける」という指摘、さらに叱責された当人の反省の辞を通じて、「ガッツポーズ=NG」が、社会的に公認されたとは言えるだろう。
優勝力士は一時期ヒール・キャラでも知られていたから、あるいは憮然とした対応も期待?されたかもしれないが、しかし、彼の反応は至って殊勝なものだった。
その姿にはいまどきの大学生のすなおさがちょっと重なる。

マイ・フェア・レディ 特別版 [DVD]

もう5年以上にはなるか。オードリー・ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』を、授業材料として折々に利用してきた。これは、下町育ちの粗野な花売り娘が、教授たちのスパルタ教育によって上品なレディに生まれ変わるという、余りにも有名なミュージカル映画だ。教育の可能性、教育方法、教育達成、人格形成、ハビトゥス、社会格差、メリトクラシージェンダー等々、ニーズに応じてさまざまな側面から料理できるし、学生からの評判も悪くない。私も飽きない。
しかしこの『マイ・フェア・レディ』について、あるナイーヴな感想が徐々に増えていることに最近気づいた。それは、「自分も主人公のようなきちんとした教育をうけたい」というものだ。「大人としての作法、礼儀、品格を身につけるのは本当に大切だ」と彼らは言う。気になるのは、彼らが別に優等生ぶって書いているわけでも、ましてや逆説的にあてこすっているわけでも、ないということだ。ごくストレートな真情の吐露に思える。
もちろん、バーナード・ショウはそのような教訓物としてではなく、その正反対の作品として原作を書いた。「お上品ぶった階層」や「教授」たちへの痛烈な皮肉が、そこには盛り込まれている。
けれども、格のないところに破格の妙がないように、彼らにはその皮肉も通じない。


お上品ぶった階層 Respectable Bourgeoisie については、後日。