造詣

木曜夜は書評会@左岸で、音楽シーンに造詣の深い著者を囲み、昨日は右岸的余暇@宝塚で、ステージに造詣の深い友人と観劇の機会に恵まれた。
それぞれ全く別個で異質な体験だったのだが、このところ考えていた主題とリンクした部分を、ふたつほど、備忘までにMEMOしておくことにする。


古典芸能を楽しむためにある程度の古典リテラシーが必要であるように、現代芸術にも各領域ならではのハードルが多々存在する。その意味で、音楽や演劇は細分化(オタク化)の著しく進んだジャンルだ。音楽もステージも、聞けばわかる、観ればわかる、ようでいて、実は大違い。大雑把な表層部分は共有できたとしても、一歩内部に踏み込んでみると鬱蒼としたジャーゴンのジャングルで、たちまち門外漢は道に迷う。「造詣の深さ」とは、その領域におけるリテラシーの度合いであり、知的「参与性」と言いかえることもできる。
例えば昨日は、「今回の役柄のランクと、演じ手の劇団内ポジショニングとの、微妙な非相関」にまで詳しい友人と、「かろうじて主役の人の名だけは聞き覚えある」程度の私。それぞれのリテラシーに応じた読解のみが可能なわけで、残念ながら時間が無くて友人の蘊蓄はじっくり伺えなかったものの、その面白さの片鱗のご相伴には与らせて頂けた。やはり芝居は見巧者と行くべきなのだ。
つまり、インタラクティヴとは必ずしも場における共時的行為をさすだけではなく、ファン行動実践としての経験や知識の蓄積をも包括的に意味している。これが一つ目。


二つ目は、その参与性と社会性について。木曜日の会で上がった幾つかの問いの中に、「音楽は解放の契機となりうるか」という(古くて新しい)主題があった。そこでは「階層」や「マジョリティ/マイノリティ」、あるいは社会的「細分化/統合」という枠組みが前提とされたりしていたが、つまりは「参与」(入っていくこと)と「排除」(しめ出すこと)の社会的機能の問題としてとらえることが出来よう。ここで具体的に考えてみればわかることだが、参与の強さは蘊蓄を深め、鬱蒼たる密林はやがて排他的領域となる。つまり、「入ること」と「追い出すこと」はしばしば連続している。共時的には矛盾するとしても通時的にはむしろ必然的に展開する、と言ってもよい。したがってメディアの「細分化/統合」機能とは、あくまでも動的なプロセスとして相対的にとらえうるものでしかなく、各メディア固有の特質として論じようとするのは無理があるのではないか、ということだ。
鮮やかな枠組みの呪縛に囚われないよう、注意が必要だろう。