エコ本位制度の可能性

http://www.env.go.jp/policy/ep_kaden/index.html
本日、エコ・ポイント制度導入。
経済危機対策と銘打っているとはいえ、定額給付金同様の選挙を睨んだ人気とりにすぎない、という政治的側面は勿論あるにはあるのだろうが、それにしても、
わずかこの半日ほどで「面倒くさい」「わかりにくい」「単純に現金換算してくれたらいいだけのことなのに」という声ばかりいやと言うほどメディアから流され、少々うんざり。そこで、
あえて、エコ・ポイントの近未来をあえてイメージ/妄想してみる。
通貨が金銭ではなくエコ・ポイントへ漸次シフトするという「エコ資本主義社会制度」構想。つまり、あらゆる交換が経済力ではなくエコ力に組み替えられたシステム、エコ本位体制の社会だ。エコ・ポイントは、個人の生活、組織の社会活動全般にわたって忠実にカウントされ積み立てられる。CO2排出抑制にどれだけ寄与できたか、リサイクルをどれだけ推進できたか、緑化や環境への貢献度など、すべてがポイント化されて保有される。現在の資本主義における経済資本のように、貨幣としてのエコ・ポイントによるエコ資本があらゆる営みの対価として「変換」されるシステムである。そしてエコの保有ポイント=資本力に応じて、初めて消費活動も可能となる。文化資本、社会資本との交換も当然可能だ。
お金持ち、ならぬ、エコポ持ち=豊か、という世の中。電力、ガソリン系消費財等、典型的アンチ・エコ商品は高価格だから、高エコ保有者でないと購入できない。将来の夢も、理想の結婚相手も、もちろん高エコ所得の第一次産業従事者。泥棒も他人の金銭ではなくエコ・ポイントを狙うようになる。

管理通貨制以外の世の中は、現実としてイメージしにくいだろうか?
かつての日本は米本位で武士のサラリーは石高制だった。これが金本位になり、現在の通貨制になった。
社会まるごとでなくとも部分的に機能する例として、例えば食料管理法による米の統制などを思い出して見てもいい。かつて身分証明証としても機能していたという「米穀通帳」など、食管法改正によって廃止される1982年まで存在していたそうだ。
米穀通帳を目にしたことは無いが、私が実生活で使ったことがあるのは「糧票りゃんぴゃお」だ。かつて中華人民共和国穀物を入手する際必要だった。要するに配給制度の配給券、切符である。外食の際も、現金を持っていても「りゃんぴゃお」が無いと不自由した。お金をいくら積んでも目の前のパンにありつけない現実は、日本社会しか知らなかった私にはちょっとしたカルチャー・ショックだった。
しかし、その制度はまさに私が中国滞在した1983年からの二年間のうちに見る見るうちに消滅していった。瞬く間のうちに「金さえ出せば何でも手に入る」ようになっていったのだ。そこで私が目の当たりにしたのは、政治における自由化の困難さとはうらはらの、統制経済が崩れる時の誠にあっけない脆さだった。
自由化が水を上から下を流すことなら、統制化はその逆を行くことか。なるほど、エコ・ポイント統制の導入は極めて困難には違いない。しかしエコ社会が我々に残された有効な選択肢のひとつであることも、おそらく事実なのだろう。とするならば、その実現のためには、「エコ・ポイントなんてめんどくさい」「現金換算してよ」という旧価値観から先ず我々自身が脱する必要がある。体制の改革は意識の変革に支えられる。革命がイデオロギーに支えられたように。かつ、集団としての「合意」なきところに社会全体としてのシステムの実現も又ありえ無い。エコとファシズムとがしばしば似姿をとるのは、従ってこれまた、仕方ないと言えば仕方のない必然と言えよう。
エコ・ポイントが今後どのように展開するのか、もう少し長期的スパンで注視してみたい。