京都の地蔵盆

東京から京都に引っ越して初めて体験したことのひとつが地蔵盆。毎年8月23,24日の地蔵菩薩の縁日に近い週末あたりに行われる。
地蔵盆がその他のお祭と大きく異なるのは、神社仏閣でも地域でもなく、各「町内会」単位に行われるという点、そして子供が主役という点だろう。京の町の辻々には、決まってお地蔵さんがいらしゃる。その数、数千に及ぶと聞く。このご町内のお地蔵さんを中心に、提灯をつるし幕をめぐらしテントを張り、と、各町ごとの飾りをこらし、お祭りをし、お供えをする。読経、数珠回しなどの行事のあとは、待ちに待った子供のための「お楽しみ会」だ。
しかしこの地蔵盆も時代と共に大きく様変わりしつつある。

第一に、少子化。わが町内でもここ15年の間に一時期小中学生がわずか2人だった年があった。こうなるとゲームやくじ引き、プレゼントをメインとする「お楽しみ会」は自然解体を余儀なくされる。
第二に、大人の事情。地元率の低下、自営業者よりもサラリーマンが増加したことなどから、ご町内のお世話にコミットする大人が激減した。
第三に、子供自身の変容。暑い中、ゴザをしき幕を張った縁日さながらの雰囲気で催される「お楽しみ会」そのものが、今時の一部の子供にとっては、すでに大きな魅力ではなくなってきている。地蔵盆に強いノスタルジーを持つ大人たちは、例えば景品などに工夫を凝らしてなんとか彼らを惹きつけようとするが、そもそも彼らの玩具やお菓子に対する欲望自体が大人世代と比べると大きく減退しているようだ。
(子供のことを餓鬼とも言う。俗に「可愛げのない悪餓鬼」などと用いる。地蔵菩薩は子供を守護すると同時に、餓鬼をも救うとされる。そもそも道祖神と習合したと言われるほど古いルーツを持つ地蔵信仰だが、その力は今後どこまで時代を超えることができるのか。地蔵パワーが試されている、と言えようか。)
そして、第四に、これはさらに根深い(地蔵パワーの試される)課題と思われる、モダンとの相克。過日ふれたとおり、明治の一時期には祇園祭送り火さえもが旧弊として中止された位だから、地蔵盆がその例にもれたとは考えにくい。しかし却って草の根的な、小規模多数祭事であるがゆえに、一時のパージも大祭事にまして不徹底だった可能性も高そうだ。モダンと伝統との相克は、京都という土地にあっては恒常的主題でもあった。復興、維持、継承の頼もしい掛け声も絶えず聞こえてきている。しかし一方で、宗教行事としての問題は厳然として存る。つまり、地域より個人が優先される近代的原則としての信教の自由をどう扱うか、という問題だ。同じ町内の、ある宗教の信者のご家庭では「良心の問題」として、地蔵盆をはじめ祇園祭の「鉾立て」ボランティアなど様々な神社仏教がらみの町内行事への不参加を一貫して表明している。そのような意思表示に対して無理強いは当然なされない。しかしそのご家庭でも(おそらく)納めているであろう一律の町内会費の中から、平安神宮の氏子の費用やら地蔵盆の諸費用などが天引きされているのもまた事実だ。町内によっては、常日頃のお地蔵さんのお掃除お水お花などの当番も輪番制で回って来る。信仰上の理由如何によらず、総あたりで回ってくるこのお当番を拒否することは、地域で生活していく上でそれ相当の覚悟が必要となるだろう。多様化が進む今日、前近代的なシステムと密接に絡んだ「町内会」という形式をどこまで維持していくことが可能なのか。あるいは、地蔵盆は今後さらに脱宗教化され地域の親睦行事として進化していくのだろうか。


各町内で催される地蔵盆の風景は、実に愛らしい。そこにはいかにもほのぼのとしたローカルな風情が満ちている。地蔵盆は、京都三大祭の何れとも違って観光客は呼ばない。あくまでも京都の地元民による地元民のための祭なのだ。地蔵盆が終わると夏休みもあと僅か。まさに京都人にとっては子供時代の夏の風物詩だ。ごく稀にお地蔵さんのいない町内がある。そういうところでは、然るべきお寺からお地蔵さんをレンタルしてきて地蔵盆をするそうだ。つまり、お地蔵さんがそこにいらっしゃるから地蔵盆をするのではなく、地蔵盆をするからお地蔵さんがいらっしゃるのだ。それほど地蔵盆は京都人にとって重要なイベントなのだ。
しかし、愛らしくローカルな風情とは、同時に排他的親密圏をも意味している。道祖神は「結界」の守り神でもあった。常に他所者に開かれつつも、滅多に奥に迄は招き入れないという京都のありようを、地蔵盆を迎えるたびに思う。